今日は、親子心理講座の二回目を受講。
前回からの宿題は、よい行動に注目して認めること、不適切な行動に注目しないこと、その記録をすることだった。
不適切な行動に注目しないっていうのは、たとえば、ごはんをだらだらだらだら食べてても、宿題になかなか取りかからなくても、しつこいきょうだい喧嘩をしてても、夜、なかなか眠ろうとしなくても、本人以外が困ることでないならば、こちらから働きかけないということ。
これがわたしには、ものすごくつらいことだった。
どうにもこうにもうるさくてイライラして腹が立ってつらくてつらくてつらくて落ち込んで、こんなことしててほんとにいいのかしらと悩みつつ、口出しせずにほうっておくことに集中するために、あるときには子どもらを置いて出かけて、子どもらとの距離を作った。また、あるときにはヘッドフォンをしてピアノを弾いた。あるときには別室で映画を見た。
いつもよりもあまりにもわたしが子どもらに指示しないので、週末には夫が、普段だったら口出ししないような場面で子どもらに指示していた。
ほぼ毎晩、11時近くまで眠らないで1週間過ごした子どもらは、「学校で眠くて眠くてたいへんだから」って、ついに昨晩は、自らの努力で9時に眠った。
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さて、講座の中で、しつけに罰を使うことの害を学んでいるときのこと。
たたく、殴る、つねる、食事を抜く、家から出す、押し入れに閉じ込める、などなど、いろんなパターンの罰があるものだが、罰からは適切な行動を学べないですよね、って話しになったとき、
わたしは、「そういう罰ではないのだけれど、のっぴきならなくなった母親が自ら、押し入れに入ってしまったり、別棟の部屋でひとりで日舞の練習をしたりするのが、イヤだった。」という話しを聞いてもらった。
「彼女はそれらを、わたしに対する罰としてやっていたことではないにしろ、わたしは、罰だと感じていた。今、子どもたちの不適切な行動に注目しないようにしている自分が、母親からやられていたことを再現しているように感じるのが、とてもつらい。」
と話した。
すると先生から、
「おかあさんがやっていたことは、『切り捨てる』という罰ですね。<子どもの自立>という子育ての目標を持って注目しない、ということと、あなたのおかあさんがやっていたこととは、違いますよ。」
と言っていただいた。
ああ、そうなんだ。
ああ、よかった。
だったら、つらくなく、ほうっておける。
今日の子どもらは今、なんにも口出しされないままに、もう、ごはんも宿題もお風呂も終わったところ。にこにこしながら、いろんな話しをいっぱいしてくれるよ。
次回までの宿題は、ほめたことの記録。