わたしは運動が苦手な子どもだった。学校で一番、運動ができなかった、という自信がある。歩く姿も走る姿も、しまいには立ち姿さえも奇妙だと誰からも笑われ、からかられるのだと思っていた。動く姿がキテレツなのだ、とコンプレックスを持っていた。ひとに見られていると意識すると、手足がぎくしゃくとした。実際、駆けたり飛んだり跳ねたりするすべての運動がうまくできなかったし、自分にはできないものだと思い込んでいた。
それがなぜだったのか、と、今になって思うと、誉められたことがなかったからじゃないのか、と感じるのだ。わたしは子どもを産んだ後で、スポーツのたのしさに開眼した。「水泳教室」に通ったのがきっかけになった。長年通っているじいさんばあさん達に混じって、教わった。とてもうまいひともいたし、とてもへたくそなひともいた。
じいさんばあさんのなかではわたしが一番若くて、上達や飲み込みが早かった。よく誉められて、認められて、得意になってよく伸びた。身体が変化していくのがたのしかった。今では3キロくらいをゆっくりと休まずに泳ぐことができるし、ジムにも通う。苦手意識を持ったままでは、できなかったことだろう。
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対して夫は運動の面で、常に花形街道にいたのだそうだ。足が早くて、球技が得意で、練習に努力をおしまない。それはそれですばらしいことだったのだが、ここに来て、ひとつの問題がでてきた。
天が「父親のように芳しく運動ができる」タイプでない、のだ。身体の構造がわたしに似てしまったようで、どうにも、にょろにょろぴょこたんぴょこたん、と、いうかんじの動きかたをする。
つまりは、天が夫のように俊敏でない。天が夫のように機敏でない。しかも、天が夫のように努力をしない、というのが、夫にとって問題なようすなのだ。天の運動会やスポーツの大会に夫と同席すると、夫は天にあからさまにがっかりして、いらいらする。
わたしは夫の期待に応えられずにしょんぼりする天の側に立ち、はらはらする。天をわたしと比べると、天のほうが優れているのに、と思う。わたしからすると、天をかつての天とくらべるのでなく、かつての夫と比べる夫が問題だ。
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さておき、本日は天のサッカー大会に行った。月がお寝坊で、夫とお留守番。わたしは朝早くから天とふたり、河原の運動場に。冷たい風が柔らかく吹き、青い空に雲がゆったりと流れていた。
天は友だちの影響で、サッカーを習い始めて3年目。先生がたのしく教えてくれるし、年一度の合宿がたのしみだと言って、練習を休むことなく続けている。年に何度か、近郊の何チームもが集まり、6分ハーフでトーナメント戦を行う大会がある。
3年前、初めての公式試合では、コートの隅で、「バッタさん」を探していた天。2年前、コートの中で「みんなを励まして応援する係」になっていた、と言った天。前の大会でやっと、負ける悔しさを知り、そのふがいなさから、夫のそばに近寄ることさえできなくなった天。いつも自信無さそうに、ボールから逃げていた天。
その天が今回は、なんと2回も、ゴール前でボールを蹴ったのだ。あたしゃ、興奮したよ。得点には繋がらなかったけどさ。わたしの息子が、ゴール前でボールを蹴るなんて!
あとで夫に報告すると、鼻で笑われたけどさ。そりゃあ、すばらしい瞬間だったのよ。
無得点のまま、一試合終わるごとに泣いちゃったけど。4試合全部負けちゃったけど。ぼくは、サッカー辞めない、って言うんだよね。よくがんばってるよ。ママは、それでいいと思うのよ。